2016年2月26日金曜日

『あな』

 『母の友』(福音館書店。すごく良い雑誌だった)に『ときには〜』の書評が掲載された。ロングセラーになる予感が実感に変わったような手応え。がらんと状況がかわるきっかけというのはあって、これはそれではないかと感じる(勘です)。
 その後の宣伝ツイートに乗じて、中学生の頃、『あな』(谷川俊太郎/和田誠)を読んで感動して泣いた、ということを書いたが、よく思い出してみたら、大学生の頃のことだった。

 当時、司書課程を受講しており、厳しいところだったのでじぶんの住んでいる場所の公立図書館に実習にゆかなければならないという決まりがあった。その際、さまざまな経験をさせていただいたのだが、児童室における私の評判はかなり悪いものがあった。
  ご来館いただいている方に貴賎なしという信条から、どういう年齢層の方からお問い合わせを頂いた際にも態度を変えず、もちろん子供のご来館者様に対しても 「どうされましたか?」などと、大人と同等の対応を頑なに貫いていたのである。子供は子供扱いされるのが好きな方が多くおられる年齢層なので、拒絶に 近い反応を毎回繰り返され、主に女性職員からの評判も付随して悪くなっていったのだった。
 しかし、「どうしたのかな〜?」 などとは口が裂けても言いたくない。本に接すること、読むことにおいて人はあまねく平等であり、生きた年数や社会的立場などは関係がないのである。態度をそこで変えてしまうことは、子供のおかれた立場への冒涜であるし、誤解を与えてしまうことにもつながる(今でもそう思っていて、図書館では物理的な対応ー 書架を低くする、やわらかい材質のものを配置する、話しかけるときに目線を合わせるようしゃがむなどー以外は大人と対応をしたほうがいい)。
 そうやって負のスパイラルへ突入していた真っ最中に読んだのが、『あな』だった。以下は記憶で書く。

 『あな』は穴を掘っている少年が、いろんなひとに「なぜ?」と聞かれる。ときには穴を掘っていることをあざ笑われたり、不思議に思われたりする。そしてたまに「わかるよ」と言ってくれる人が出てくる。少年は、ひたすら穴を掘り続ける……。

 本書中で、なぜ「あな」を掘っているのかは明示されない。それは読者自身の「あな」があるからである。
 当時は絵本に一切関心がなかったが、仕事だから少し読もうと思って偶然手にとったのが本書で、図書館での仕事のこともあったのだが、他にもそれまでにあったいろいろなことを読みながら思い出したのだった。

  自分が考えていることややろうとしていることを伝えようとしても伝わらないことが普通で、理解してもらおうと思っても相手にその意志がなければ理解されない。動いて、目に見えるものをつくってもそれは同じで、それでもひとりっきりで穴を掘り続けるしかない。
  いまでもこの感覚は変わっていなくて、人が何を言ってるのかわからないことがほとんどだし(怒られることが多いが、その人は自分が言っていることが他の人に理解されていると思っているのだろうか)、自分がやっていることもほとんどの人には理解されていないと思う(でもたまに「わかる」と言ってくれる人がいる)。しかしやる他はなく、それには理由はないのである。
  絵本は一生でこの一冊だけでいいと思っているので、その後は(古本の検品を除いて)一冊も読んでいない。